ミャンマー のこと、東大駒場寮のこと

ミャンマー のニュースを見て、聞いて、非常に辛くなっています。

(全くキャンプと関係ないです、長いです、読む必要性は低いです)


私が大学に入ったのは1991年でした。もう30年前か。

色々なことをして、物凄く忙しかった大学生活だったけど、最初の2年間の中で、時間を非常に使ったことの一つが駒場寮の廃寮反対運動でした。

東京大学の最初の2年間は、「教養学部」という形で、本郷ではなく駒場に通います。駒場寮は旧制一高の全寮制の名残を残す、駒場キャンパス内部にある寮です。三人一部屋で、月額一人1万円ぐらい(1万円以下だったか)かなあ。

ぼろい、汚い、自由。


大学の1年生の終わりぐらいから、「東京大学教養学部学友会学生理事会議長」とかいうのをやってました。もともとは、大学紛争の時に、自治会に対抗して作られた「御用組合」ですが、私の頃は、思想も変えて、ただ活動は低迷していました。私の前ぐらいまでには、体育会とかサークルへの予算を配分するだけになっていたのかな。ただ、日本共産党が、代々、東大教養学部の自治会を牛耳っていたのに対して、共産党系じゃない学生たちが何らか集っていたところでもありました。私の時に、相手方(敵方?)の東大教養学部自治会の議長をしていたのが、今、国会議員をしていて、鋭い質問とかで光っている宮本徹さん。今は凄い、ただ当時はボォーとしていた記憶が、、、


駒場寮は、当時、住んでいるだけではなくて、サークルで結構、使っていました。その流れで駒場寮廃寮反対運動の中核に学友会が出て行ったんだと記憶しています。結構、暴れた記憶があります。


その駒場寮に、ビルマ(当時の人達は絶対にミャンマー ではなくビルマと言っていました)からの学生の人達がいました。1988年の軍による大規模弾圧を受けて、日本に逃げてきた学生です。ヤンゴン大学の方々だったと記憶。彼らは、東大の中でも周囲との関係はあまり持たずに生きていました。

私が、時間を使っていたサークル(?)の一つに「アジア・アフリカに学ぶ会」という開発経済学をやるサークルがあり、そのサークルの先輩を通じて、彼らと交流を持ちました。

まだ、当時の私にはクーデターも、国を捨てて逃げなければいけない、ということも全く実感がありませんでした。非常に良くわからない異質な世界にしか感じられませんでした。

「アジア・アフリカに学ぶ会」の先輩の五石さん、私が最も尊敬する先輩の一人、がその学生達の紹介で、タイから国境を超えてカチン族の森林ゲリラの所に行くぞ!と誘ってくれた事もありましたが、タイまでの旅行代金がなくて行けなかった。

自分とは関係の無い世界のままで終わってしまいました。


その時は、そのままでした。


神戸の実家に戻った時、ゴムの工場の研究開発の社員としてミャンマー からの人を雇いました。優秀でした。彼女は、ミャンマー で今、どうしているんだろう。


それから、また15年近くが経過して、妻と会いました。妻は、20代の時に、ミャンマー のパガンにあるホテルに、日本から管理スタッフとして派遣されて2年ほどいました。日本資本のホテルで、フランスのアコーとマネジメント契約を結んでたホテルです。そこに、日本側から一人だけ派遣されていたらしい。

私は、パガンに行ったことはないです。仏教遺跡の素晴らしい所らしいですが、とにかくカエルが多いらしいです。子供が少し大きくなったら、行こうね、と話をしていました。


ミャンマー の軍政が終わってから、私の友人の中で、ミャンマー に言って不動産をやり始めたりする人もいました。とにかく興奮していて、凄いスピードでの経済成長と、正直な気質との組み合わせは素晴らしい、ということを聞いていました。


1988年、前回の軍事クーデターの時、何千人を行方不明にしてでも、軍は統制を緩めませんでした。今、より情報は伝わる様になっていますが、軍は手を緩めないでしょう。それに対して、何百万人がデモに出ていますが、1988年の記憶がある中で、どうやって最終的な勝利を掴めばいいのか、道筋が見えません。現地の状況は、日本で報道されているレベルから考えられないぐらい酷い、と友人からは聞きます。


1988年、1991年の時のことは、自分とは関係のない世界の話にしか思えませんでした。前途洋洋たる青年に取っては、クーデターとその後の圧政の話は、身近に感じられませんでした。だが、今の年齢を経た私にとっては、より身近なことになっています。


ただ、何が出来るんだろう。何をしたらいいんだろう。

何も出来ないまま、現地では、行方不明者がドンドン増えて行っています。

民衆側(と言っていい)が、何かを手にする道筋が見えないまま、絶望的な蜂起を繰り返し、それが徐々に規模が小さくなっていき、消滅するのだろうか。


辛いです。

具体的に知っている人達を通じて、聞こえてくる事、そして自分が何も出来ないこと。


シリアで起きたこと、新疆で起きたこと、香港で起きていること、ヤンゴンで起きていること。


韓国の済州島で、第二次大戦後、1948年に当時の韓国の軍・右翼組織が島民を数万人虐殺する、という事件がありました。その時に、日本に「子供だけは」ということで逃してもらえた人を、日本は受け入れ(称賛されるべき事なのに、誰も語らない)、いわゆる在日韓国人のかなりの割合を占めました。当時の島民人口の2割近くが殺されたこの出来事を、韓国でも日本でも知っている人は殆どいません。すぐ隣の島なのに。

私が子供の頃、済州島に墓参りに行った時(ご存知の通り、私は済州島にルーツを持つ在日韓国人です)、墓に銃痕がありました。日本軍なのかと思ったけど、韓国軍でした。

そして、この出来事は、韓国では未だに、本当には総括をされていません。済州島で語る人もいません。

小さい頃、伊丹空港から済州島の空港に行く、飛行機の中で、済州島に近づくと酒盛りを始め、酔っぱらうおっちゃん達がいました。みっともないなあ、としか小さい頃の私は思えませんでした。今、考えると、あれは、追放された故郷に戻る、どうにもしようが無い、怖さもある気持ちをお酒を飲んで克服しようとしていたんだと理解します。


20代の時に、シベリア鉄道で旅行をしていました。二人部屋の個室で途中から「熊」みたいなゴツくてデカイおっちゃんと同室になりました。いきなり、個室の鍵を閉めて、こっちにこい、と言われてビビっていると、大切に布でくるんだウォッカを出してきて、一緒に飲もうと言われました。スターリンの時に、ウクライナからシベリアに強制移住をさせられたが、やっと帰れると、飲みながら泣きながら語ってくれました。やっと帰れる、でも怖い、と。 ソ連が崩壊して、そんなに時間が経過していない時でした。ロシア語がわからないのに、どうして当時、コミュニケーションが出来たんだろう。でも、確かに通じ合っていた。



今のミャンマー のことを聞いていると、このまま行方不明者が増え、海外に脱出できる人は脱出し、そして故郷に戻れる日を待ち望む、脱出できない人は耐えるしかない、という道しか見えない。

自分が生まれ育った所に住み、慣れ親しんだ味の食べ物を食べ、同じ様な思考の人達と生活し、笑う、という事が奪われる。


敵国に占領されるんじゃない。同じ民族、自分の国の政府が自分達を轢き潰す。

21世紀になっても、3000年経過しても、人は愚かしい。

そして、自分に出来ることが無い。


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